日本大学馬術部

HISTORY

日大馬術部の歴史

大正13年 創設された頃

部の状況

【馬術部の誕生】

大正13年大学学則の大巾改定があり、学生集会規則が制定され、体育部が承認された。我が馬術部は、陸上競技部の中に含まれて創部された。

馬術はそれまで法学部、医学部、歯学部で同好会として行われてきたが、各々が統合され、体育部馬術部として陸上部の中に含まれ誕生した。しかし、練習は今まで通り、各々野砲連隊あるいは輜重連隊で行う事となった。(故鈴木勝総長談)

活躍された選手

【創部時代のメンバー】

歯学部:鈴木勝(故)、柿崎徳太郎、川崎、信太、山本
医学部:泉川正義、杉田、佐原義長
法学部:穴沢義雄、一戸、元島

特記事項

(1)3学部で馬術を志す学生が、一緒になって馬術部を創設したが、学業の時間の違い、練習場所の違いなどから、部として統一した活動は難しかった。(故鈴木勝総長談)
(2)京都若草大会(学生の部)/鈴木勝 3位。

部長・監督

不明

昭和元年~昭和10年頃 活発な動きを始めた頃

部の状況

この時代に入って、徐々に馬術部としての活動が、活発になってくる。特に昭和2年、陸上部より分離して独立をした事。また、我が国における学生馬術も、当時の陸軍の援助を受けて活発になって来た時代である。
● 昭和5年11月 関東学生馬術大会で高杉耕治が2位、医学部杉田が入賞。
● 昭和6年に全国学生馬術選手権で高杉耕治が5位入賞。
● 昭和10年7月には、全日本学生主催の東北大会で団体優勝。
活動が非常に活発になって来た。

東京獣医高専(現農獣医学部の前身)では、昭和6年に馬術部を創部。昭和7年には、関東学生馬術争覇戦において(2部)優勝を果たしている。

活躍された選手

【日本大学】

鈴木勝(故)、信太、山本、岡田、江上滋、九十九、高橋虎雄、清水威雄、土浦、高田、杉田、高杉耕治(故)、庄司、松本、近藤嘉司

【東京獣医高専】

創部時代からのメンバーと活躍した選手。
桑原志郁夫、小堀進(故)、内田直孝(故)、山内善郎、高橋孝一、小川、高坂

特記事項

高杉耕治の全日本学生選手権2位と東京獣医の関東争覇(2部)優勝。昭和10年、全日本学生主催東北乗馬大会団体優勝などの成績で代表される通り、我が馬術部も発展の一途を辿った時代であった。
※ 関東選手、高杉耕治、近藤嘉司、江上滋

部長・監督

【日本大学】

部長/加藤一雄(故)
監督/不明

【東京獣医高専】

部長/植村巻太郎(小谷一雄)
監督/内田直孝(故)

昭和11年~昭和20年頃 戦運の影響を受けた頃

部の状況

昭和13年に予科(現文理学部)に新しく馬術が正科となり、60頭入り厩舎と100m四方の馬場が出来たが、馬術部としてはこれを利用する事が出来ず、各々に各学部別で軍隊(輜重隊、士官学校、野砲隊)で練習を行った。
昭和15年頃より、戦運は徐々に厳しくなり選手達は非常に苦しい環境の中で、母校のために活躍したが、昭和17年以降は殆ど学徒動員などで、三崎町校舎に部屋があるだけといった状況になり、昭和19年、遂に部は休部となってしまった。一方、東京獣医高専の方も、戦運の影響でやはり消滅状態となっていたが、休部するまでには至らなかった。

活躍された選手

【日本大学】

高杉耕治(故)、近藤嘉司、馬島秀麿(故)、津村昌幸、加藤金一郎、高島憲正、正木準一郎、小稗康次、大和武彦、笠井仁己、成田、田代公徳(故)、祖上、鈴木文弥、石井順造、石崎夏夫(故)、中根英治郎(故)、白井達、牛尾勉久

【東京獣医高専】

庄内貞夫、臼井弥三郎、阪田晋二郎、大木正巳、原田嘉久、入来重弥、伊村幸一、奈良崎利孝、東野利忠(故)、山田好(故)、成田忠俊、坂田倉蔵、花形利次

特記事項

※ 関東選手、大和武彦、田代公徳(故)、石井順造

部長・監督

【日本大学】(昭和15年まで)

加藤一雄(故)
監督/不明

【東京獣医高専】

部長/桑原志都夫
監督は各代の主将が兼務

昭和21年~昭和30年頃 戦後の混乱期の頃

部の状況

昭和21年4月、大学に体育部が再建。(馬術部は昭和22年に再建)再建と同時に現在の文理学部(予科)の焼跡に4頭入り馬房が建設され、馬場は予科時代のものをそのまま使用する事となった。しかし、馬匹は1頭(班月号)だけであった。戦後の混乱の中で、充分な資金もなく施設、道具すべてが、みじめな時代であったが、部員達は苦労に苦労を重ね、馬匹を飼育し馬術部の発展のために懸命の努力をした時代であった。東京獣医高専も合併し(昭和27年)、農獣医学部で練習をしたが、日本大学の方は馬匹が少ないので、部員達は各々乗馬倶楽部、馬事公苑で練習を行った。

学生馬術も再び盛んになり、六大学、東都大学にリーグ戦がスタート。関西にも同様のリーグ戦が出来た。この時代、リーグ戦優勝から昭和30年には遂に全日本学生の王座についた戦後の第一期黄金時代でもあった。

活躍された選手

【日本大学】

岩井将治、喜勢八十八、吉原磯吉、金子三郎、中居恒穂、山見昇、田中等、田村敏彰、加藤善太郎、山川光雄、掘越博、中居清二、冨士川満男、秋村日出海(故)、古谷忠昭、堀口勇、木村喜一郎、後藤博志、上条徳(故)、高橋(故)、水町暢宏

【東京獣医高専】

百々猛、小津昭、米沢貞男、金田安司、平野弘三

特記事項

(1) 昭和27年、東京獣医高専が日本大学農学部に合併し、日本大学獣医科となった。したがって、馬術部も統合された。しかし、日本大学の馬術部は下高井戸の馬場で、獣医学部の馬術部は、三軒茶屋で各々に練習し、同じ日本大学でありながら2つの馬術部に分かれるような状況が暫く続いたのであった。
(2) 関東選手、山見昇、冨士川満男、古谷忠昭、後藤博司、上条勝徳

部長・監督

【日本大学】

部長/鈴木正紀(昭和22年~昭和39年)
監督/高杉耕治(昭和22年~昭和31年)

【東京獣医】

部長/桑原志郁夫

昭和31年~昭和39年 馬場移転などで低迷した頃

部の状況

昭和31年頃から、部は低迷期に入り、部員達も懸命の努力はしたのであるが、公害問題などで、下高井戸校舎での馬術部の施設が問題となり、馬術部の存続すら危ぶまれる苦境の時代であった。しかし、伝統を守る部員の努力と大学当局のご理解から、藤沢六合の農獣医学部に馬術部の施設を移動する事により部は存続されたが、諸問題で、すっかり成績の方は低迷してしまった時代である。

活躍された選手

草野栄雄、瀬名春樹、加藤修輔、鬼頭弘一、桂川慎吉、河野敏夫、青柳広夫、佐藤伝一、柴内裕子、山内琳、東田昇、伊藤衛、武居義明、森本剛、矢野貞雄、小椋正、大塚信太郎、嶋崎輝雄、風間俊輔、安済勇男、福島友利、並木義幸、鈴木修、鈴木豊、田島義晴(故)

特記事項

高杉耕治先輩がミュンヘンオリンピック監督となる。馬匹~桜駿号、桜花号、桜月号、桜烈号の4頭に増えた。

部長・監督

【日本大学】

部長/鈴木正紀(昭和22年~昭和39年)
監督/山川光雄(昭和31年~昭和40年)
調教師/福田章昭和(昭和29年~昭和45年)

昭和40年~昭和50年 馬術部の夜明けの頃

部の状況

大学当局のご理解で藤沢の農学部に馬術部の施設が移り、公害問題で迫害されていた下高井戸から開放され、加えて、新桑原部長、新後藤監督の新体制で、部員も馬匹も心機一転して再建に踏み出した時代であった。この40年代前半は、新体制下ですべての面に苦労は多かったが、昭和42年早くも、忘れていた優勝の喜びを勝ち取ってからは、もちろん苦境の中ではあったが、後藤体制が着々と実を結び40年後半に向かって快進撃が始まり、学生馬術界王者へのしっかりとした足固めがなされた時代であった。そして常に、学生馬術はもちろん我が国馬術界においても、誠に優秀な成績を個人でも、また団体でも上げるように発展した時代で、まさに馬術部夜明けの時ともいえる時代である。繋養馬匹も5~6頭から10数頭に増えてきた。忘れられない馬匹に桜烈号、桜日号、桜冠号、桜雄号、桜浪号、桜錦号、ムネヒサ号などがいた。

活躍された選手

阪田勝、重田雅彦、田島謙郎、山本靖義、山岸武次、曽根滋、北嶋守、木内義則、井上敏夫、渡辺弘、村上英夫、植田伸孝、槙本あや子、岩崎伸道、鈴木瑞美子、高石啓一、木村義文、清水あつ子、植田元、浜崎洋啓、渡辺和子、浜岡秀昭、市川喜一郎、柏原法泉、武田茂男、田中啓雄、藤原辰男、明石修、大木道子(現黒沼)、園田伸正、田名部誠、津川和重、野村努

特記事項

昭和40年、山川監督が辞任され、後藤監督が馬術部の存続をかけ、OB会でも最後の切り札として就任してもらった。そして、後藤監督のもと、再び迎える黄金時代に向かってスタートした時代であった。

部長・監督

部長/桑原志郁夫(昭和39年~昭和58年)
監督/後藤博志(昭和40年~平成15年)
助監督/鈴木瑞美子(昭和49年~昭和52年、平成10年~現在)
調教師/福田章昭和(昭和29年~昭和45年)
コーチ/鬼頭弘一(昭和40年~昭和52年)

昭和51年~昭和60年頃 旭が昇り黄金時代

部の状況

昭和52年藤沢の施設は、大改築され、すばらしい合宿所、厩舎、馬場が新築された。昭和40年代に再建され、王者への足固めが出来て、いよいよ黄金時代を迎えることになった。破竹の連勝記録を作ったり、個人的に優秀な選手が続出され、植田選手のオリンピック出場から、部員達の意識の中にオリンピックも大変身近な事に感じるイメージが芽生えてきた。昭和52年には施設も立派なものを与えられ、部員達もすばらしい合宿所とすばらしい馬場、また優れた馬匹で、充分なるトレーニングができるようになった。厩舎は19頭、治療所、装蹄所を完備、後藤監督、鬼頭コーチ、福田調教師と指導陣も充実し、学生馬術界の王者に君臨した時代である。昭和40年代には夜明けを迎えた馬術部の旭が天高く昇った時代である。個人成績、団体成績共に、優勝回数も枚挙にいとまがない時代である。

活躍された選手

南本好郎、宮崎栄喜、亀井和博、黒田武司、嶋田佳華、西川妙子、萩原幹夫、原正行、上野明秀、田中秀俊、古賀未徳、福田耕夫、法理勝弘、諸岡慶、諸岡畄美子、石上一成、伊村直也、工藤信夫、藤井芳美、諸岡徹、山本俊哉、上田修二、内山信幸、坂本直枝、河村邦代、小島不二宜、小美濃英華、小宮裕子、原直昭、沖崎誠一郎、辻政信、河村敏明、君島進、深瀬晶子、吉岡孝之、河北浩峰、坂本浩治、坂本信子、鶴島みゆき、鶴林秀幸、黒澤智子、中村茂、東山弘一、浜名邦宏、大竹博、後藤浩二朗、菊池敬子、小山香、高橋尚裕、中村公子、藤原健、東博巳、伊藤圭三、大島宏、腰山修三、田島佳樹、塚本親治、西川隆哉、山下俊彦、山中康宏、大久保武将、柘榴浩樹

特記事項

第10回ソウルアジア大会に、本学から下記の役員選手が参加、全選手メダルを獲得す。
監督/後藤博志
助監督/鈴木瑞美子(昭和49年~昭和52年、平成10年~現在)
総務/冨士川満男
選手/宮崎栄喜、後藤浩二朗
装蹄/諸岡慶
昭和55年 100勝記念祝賀会を帝国ホテルにて開催。繋養馬匹も20数頭に増えて来た。

部長・監督

部長/桑原志郁夫(昭和39年~昭和58年 )、佐久間勇次(昭和58年~平成6年)
監督/後藤博志(昭和40年~平成15年 )
コーチ/冨士川満男【ヘッドコーチ】(昭和58年~平成8年)、鬼頭弘一(昭和40年~昭和52年)、植田元(昭和47年~平成13年)、中村公子(昭和59年~昭和61年)、黒沼道子【旧姓大木】(昭和50年~昭和58年)、後藤浩二朗(昭和59年~平成5年)、諸岡慶(昭和53年~平成8年)

昭和61年~平成5年

部の状況

昭和50年代後半から、アマスポーツの感覚も大きく変わって来た時代である。部員達の気質も少しずつ変化して、自家用車の利用者が多くなって来た。馬術部も常勝日本大学として学生馬術界に君臨する事が当たり前の時代となり、馬術部の施設のすばらしさに驚くこともなく、部員達の心から感動が薄れ、王座を守るのに苦労する時代となった。時代の変遷と共に作業も動力を導入し、少しでも無駄を省き、エネルギーをトレーニングに向けるという、スポーツトレーニングの方法なども変化して来た時代である。平成5年には遂に団体優勝200勝を達成した。オリンピック出場選手も5名を数える日本一の部にまで発展したのである。

活躍された選手

岩谷一裕、田嶋弘幸、柴田浩征、安藤浩之、杉本隆雄、今井千香子、石田英治、伊藤史人、吉岡明裕、浅沼菜穂美、杉本修子、兪在泓、白井亨、吉永健司、中野正幸、塚田由佳、岡部久仁子、小菅慶子、桑原千砂、小島協子、加藤有大、上妻和道、細野茂之、山内恒樹、吉田駿、群明子、柴田一直、大塚哲郎、宮野将徳、宮下誓夫、吉橋昌理世、賀村研、石井秀紀、荒川博、篠原真一、望月秀紀、鈴木高和、水町友香、小島亜矢、斎藤卓哉

【馬匹】

メジロサンゴ号、アイスターキング号、チェス号、桜慶V号、メジロフィアット号などを筆頭に20数頭。

特記事項

(1) 宮崎栄喜、岩谷一裕、渡辺弘、ソウルオリンピック代表となった。
(2) バルセロナオリンピック大会代表に下記役員、選手が参加し、日本馬術史上初の団体7位入賞を果たす。
総監督/後藤博志
コーチ/冨士川満男
選手/宮崎栄喜、後藤浩二朗、岩谷一裕
(3) 創部以来、遂に200勝を突破、後藤監督の偉大な功績を称える。
(4) 後藤監督、現役監督を通算して200勝を達成。

部長・監督

部長/佐久間勇次(昭和58年~平成6年 )
監督/後藤博志(昭和40年~平成15年 )
コーチ/冨士川満男【ヘッドコーチ】(昭和58年~平成8年)、植田元(昭和47年~平成13年)、中村公子(昭和59年~昭和61年)、後藤浩二朗(昭和59年~平成5年)、諸岡慶(昭和53年~平成8年)

平成6年~平成15年

部の状況

時の名も平成に変わり我が部も時代と共に変化を遂げる。平成5年を境に全日本三種目総合優勝からは遠ざかりライバル校から遅れをとってしまったかんがある。そんな苦境の中だが、学生寮の改築、なお一層の立派な施設を授かる。馬場の日大としての新たな地位を確立し、優勝回数は280を数え、前人未踏の団体優勝300が近づき時代の節目が予感させられる状況である。全日本三種目総合優勝、奮起を図って部員の精進は続く。

活躍された選手

向後栄治、坂本美紀、清水友昭、鈴木剛信、古川範行、野口佳槻、奈良崎和孝、村田真利奈、安藤寛、音道隆一、山下大輔、宮沢佐和子、後上多恵子、小川登美夫、稗田竜馬、石井輝、片岡杏子、斎藤卓哉、下坂奈央、児玉聖光、柏原知佳、間宮幸子、宇佐美結生、井上遙、福永菜摘、中島悠介、鶴林秀貴、永嶋恵

【馬匹】

ロジカルソング、桜銀、桜秀、桜冠、モディリアーニ、オニジムドゥモン、桜山、スキポールを筆頭に10数頭

特記事項

岩谷一裕 アトランタオリンピック代表選手
細野茂之(現コーチ) アトランタオリンピック、シドニーオリンピック代表選手
平成15年、創部以来の300勝。後藤監督の力は衰えを知らない。

部長・監督

部長/石井賢冶(平成6年~平成12年 )、酒井健夫(平成12年~平成25年)
副部長/荒川泰行(平成12年~平成14年)
監督/後藤博志(昭和40~平成15年)
助監督/鈴木瑞美子(昭和49年~昭和52年、平成10年~平成14年)
コーチ/冨士川満男【ヘッドコーチ】(昭和58年~平成8年)、植田元(昭和47年~平成13年)、諸岡慶(昭和53年~平成8年)、柏原法泉(平成6年~現在)、村田真利奈(平成13年~平成14年)、細野茂之(平成15年~現在)

平成16年~平成20年

部の状況

諸岡監督を監督に迎え4年目になる。
馬の入れ替え。日大を代表する名馬たちの離厩によって戦力低迷の危機に遭遇したが,諸岡監督はじめ多くのOB有志により,即戦力となる新しい馬たちが入厩した。部員は新しいパートナーと共に全日本三種総合優勝を狙う。
馬場の改装。本馬場,水濠,厩舎と円馬場の間,ピアノバンケットが新しくなった。
周囲の状況。一昔までは森に囲まれていた馬術部も,今では四方を住宅に囲まれるようになった。
施設の整備。大小ふたつの道具小屋と障害置き場の建て替え。駐車場の整備。蹄洗所の増設。さらにトラクターが新しくなった。
今年は丸馬場に屋根を取り付ける予定である。

活躍された選手

中島悠介、岩崎浩明、為貝幸央、大友和哉、北村美緒、樫木俊、森田祥平

特記事項

細野茂之(現コーチ)ドーハ アジア大会代表選手。(為貝幸央が専属グルームを務める。)

部長・監督

部長・監督/諸岡 慶(平成15年~平成21年),酒井健夫(平成12年~平成25年)
副部長/若松俊雄(平成19年~平成26年)
助監督/鈴木瑞美子(平成10年~平成14年)
コーチ/細野茂之(平成15年~現在)、岩谷一裕(平成15年~現在)

平成21年~現在

部の状況

諸岡監督を監督に迎え18年ぶりに全日本学生馬術三大大会三種目総合優勝を果たし、大学馬術会のトップに再び登り詰める。
新厩舎、丸馬場が新しく建設され馬場も拡張した。練習環境が新たに改善され部員たちの闘志に火が灯る。

活躍された選手

伴春臣、三輪雄一郎、伊藤昌展、上原佑紀、鳥矢部健太、天谷幸枝、高樽優也

特記事項

平成23年度全日本学生馬術三大大会三種目総合優勝、 田中範夫部長就任(平成23年)、野下由希子コーチ就任(平成22年)、 新厩舎建設及び馬場拡張(平成23年)

部長・監督

部長/中村 克夫(平成26~平成28年)、大矢 祐治(平成29~現在)
副部長/丸山 総一(平成27年~現在)
監督/諸岡 慶(平成15年~現在)
コーチ/鈴木 瑞美子(平成10年~現在)、細野 茂之(平成15年~現在)、岩谷 一裕(平成15年~現在)、小川 登美夫(平成15年~現在)、野下 由希子(平成22年~現在)、大友 和哉(平成20年~現在)、菅原 権太郎(平成29年~現在)
獣医師/大友 和哉(平成22年~現在)

5 MAY

試合・行事日程

3(FRI)
ホースショー
4(SAT)
ホースショー
5(SUN)
ホースショー
10(FRI)
選手権、女子選手権
11(SAT)
選手権、女子選手権
12(SUN)
選手権、女子選手権
14(TUE)
全日本ヤング総合
15(WED)
全日本ヤング総合
16(THU)
全日本ヤング総合
17(FRI)
全日本ヤング総合
18(SAT)
東京乗馬大会
18(SAT)
全日本ヤング総合
19(SUN)
東京乗馬大会
19(SUN)
全日本ヤング総合
20(MON)
全日本ヤング総合
21(TUE)
全日本ヤング総合
22(WED)
全日本ヤング総合
23(THU)
全日本ヤング総合
24(FRI)
全日本ヤング総合
25(SAT)
全日本ヤング総合
26(SUN)
全日本ヤング総合

年間行事予定

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