INTERVIEW 08
常に繊細に もっと大胆に
岩谷 一裕
1986年卒
夢の舞台に立つ
馬術のアスリートとしては比較的若い時期から国際大会の出場経験を積み重ねてきました。1988年ソウル五輪の総合馬術に出場したのは日大を卒業した2年後のことです。五輪は馬術を始めたときからずっと憧れていた夢の舞台。馬の購入・輸送、遠征費用などを現実に考えたら夢物語とも思っていましたが、勤めていた乗馬クラブクレインのサポートがあり、チャンスをつかむことできました。
各国が出場権を争う英国での予選会で会社所有の馬を駆り、日本人トップの成績。しかし五輪に出場しても、まずは完走できればよしというのが当時の日本馬術のレベルです。五輪の総合馬術を完走した日本代表は、私ともう一人の選手が戦後初でした。初出場の五輪は終始緊張したまま、あっという間に終わった大会でした。
挑み続けた競技人生
五輪の悔しさは五輪で晴らす。その思いでソウル五輪閉幕後も練習に打ち込みました。シーズン中の2~10月に英国で経験を積み、シーズンオフは乗馬クラブのインストラクターとして働いた4年間。準備と鍛錬を重ね、再チャレンジした92年バルセロナ五輪の記憶は今でも鮮明です。結果は総合馬術団体で7位。日本代表のトップバッターに恥じない攻めの走りを意識しました。
競技人生の集大成とする覚悟で挑んだのが、3回目の五輪出場となる96年アトランタ五輪です。順位は前回より一つ上がり、総合馬術団体6位。競技直後はもっと上位に行けたはずという思いがあった一方、私たちの世代が狙えるのはここまでかなとの達成感もあり、国際大会の現役から身を引く決断をしました。
今の自分なら10年かけて得たものを5年で若い選手に与えられる。一線を退いた背景にはそんな思いもあり、指導者として馬術に恩返しする新たな人生にかじを切りました。
名門再生
乗馬クラブ勤務の傍ら、日大馬術部のコーチに就いたのが2002年。諸岡監督の就任と同時です。まさか、母校で教える日が来ようとは思ってもいません。指導の成果が見えだしたのがここ5、6年。ちょうど、全日本学生馬術三大大会・3種目総合の連覇が始まった時期です。
就任1年目はとにかく大変。当時は馬術部が低迷していた時期で、馬も選手もまったくなってない。厩舎にいた30頭近くの馬を一人で調教し直しました。馬が良ければ選手の技量も上達しやすくなります。あの時できたあざやすり傷はチームを強くするための代償です。
部員にはまず自分の乗馬姿を見せ、「視覚で技を覚えろ」と指導しています。目で技を盗んだら、個人の感覚でさらに磨きをかける。生き物を扱うスポーツで同じシチュエーションが起こることはまずあり得ません。馬術の上達には臨機応変で繊細な感覚が不可欠なんです。
現在の部員たちへのメッセージ
日大馬術部はもっと大胆さを発揮していいと思っています。小さくまとまらず、一流アスリートに負けない闘争心を見せてほしい。
馬術以外の学生生活も大切です。4年間でより多くの知識を身に付けて卒業し、世の中に羽ばたいていってもらいたいです。
岩谷 一裕1986年卒
86年法学部政治経済学科卒業。乗馬クラブクレイン取締役、日大馬術部総合馬術コーチ。88ソウル五輪出場、89年全日本総合馬術大会選手優勝、90年同選手権優勝、92年バルセロナ五輪総合馬術団体7位、96年アトランタ五輪総合馬術団体6位、00年シドニー五輪馬術日本代表コーチ、12年ロンドン五輪馬術日本代表監督。