INTERVIEW 02
もう一度、日大からオリンピック選手を。
鈴木 瑞美子
1971年卒
数々の女性初を作った、馬漬けの7年間。
私は高校が日本大学の付属でしたので、馬術部が大学と一緒だったんです。1年のとき、先輩から「馬かわいいわよ、見に行かない」と誘われたのがきっかけで、私自身、乗るよりもまず馬の側にいて手入れするのが好きでした。
それから土日は大学の馬術部に練習に行き、夏休みは朝始発に乗り、夜は8時まで残ってという日々を送りました。といっても最初から馬に乗れたわけではなく、1ヵ月通い続けた後に、はじめて馬に乗せてもらえました。
馬術は男女の区別のない競技なのですが、当時は女性がなかなか選手として出場できない時代でした。なので男子の倍がんばらないといけない。その中で私たちは女子自馬など、女性だけの競技を作ったり、クロスカントリーを女性ではじめて走ったのも私でした。
学生時代はとにかく馬漬けでしたので、いまだに当時の知り合いに会うと、みなさん覚えていてくださる。よほど汚い格好で馬事公苑にずっといたんだなって(笑)。それだけがんばってきた経験は、何かの役に立っていると思います。
日本人初の国際審判員へ。
卒業後はしばらく働き、お金を貯めてアメリカの乗馬学校へ留学しました。帰国後は乗馬クラブのインストラクターをしていましたが、結婚して子育てに入ったので、それから何年間かは厩舎に足を運ぶこともありませんでした。
子育てがひと段落した頃に、後藤博志監督(当時の日大馬術部監督)から、「国際審判員が足りないから取得してほしい」と依頼され、アイルランドの審判講習会に参加しました。それからは広島でのアジア大会を手伝ったり、英語もずっと使っていなかったので勉強して、資格を取得しました。おそらく総合馬術の国際審判資格を取得したのは、日本人で私がはじめてだと思います。
その後もカタール・ドーハや広州でのアジア大会に審判として参加したり、先生であるオーストラリアの審判の方のオーガナイズする試合もたくさん審判させてもらいました。こうした経験をしながらスキルを上げることができたのも、周りのみなさんが良い環境を作ってくださったから。本当に人に恵まれていたと思います。
一番じゃない子も伸ばしてあげられる。
馬術競技は、こういう失敗が減点になるということが大体決まっているので、それを頭に入れて競技をすればスコアが良くなります。私は今も海外の試合で審判をさせていただいているので、日本大学ではその経験をフィードバックしています。
指導の際、厳しいことを言ったりもするのですが、それについて来た子は、ちゃんと上のクラスに行きますね。よその審判の方から「日大の部員は、最初はこのコンビ大丈夫かと不安に思うけれど、11月の全日本学生の頃には勝負できるまでに成長している。すごいことだ」と言っていただくこともあります。入部する際に一番じゃない子も、うちのコーチ陣と馬で、伸ばしてあげられるんです。
最終的な目標としては、しっかり単位を取り、馬術部の生活も続けて、4年で卒業してもらいたいですね。馬術部の部員は一般の学生さんより相当ハードだと思います。練習も馬の世話もして授業にも出て、それに馬の具合が悪くなったらいち早く見つけないと手遅れになる。そういう緊張感に加えて、歳の近い人同士で毎日過ごすので、もめることも当然ありますから。でも、それらをすべて乗り越えることができれば、社会に出ていく上で絶対に力になります。
これからの日大馬術部への期待
やはりオリンピック選手を出したいですね。これだけみんながんばって4年間共にやってきているのだから、目標として一番高いところを目指してほしいです。いろいろと難しいこともあると思いますが、私たちの時代と違って、コーチなど、海外に知り合いの多い人がたくさんいますから。そういうトップクラスの人たちと連携して、サポートしながら出していきたいと思っています。
鈴木 瑞美子1971年卒
1971年経済学部 経済学科卒業。日本馬術連盟 事業推進本部委員、財務委員、国際委員、学生馬術連盟担当役員。2014年まで日本馬術連盟 総合馬術本部 本部長を務める。学生馬術における女性騎手の先駆けとして、女性初のクロスカントリー出場など、女性進出の礎を作った。審判員としても日本人女性初のインターナショナルジャッジを取得。後進の国際審判の育成も行っている。