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日本大学馬術部
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840
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歴史

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  大正13年 創設された頃
部の状況 (馬術部の誕生)
○ 大正13年大学学則の大巾改定があり、学生集会規則が制定され、体育部が承認された。
我が馬術部は、陸上競技部の中に含まれて創部された。
※ 馬術はそれまで法学部、医学部、歯学部で同好会として行われてきたが、各々が統合され、体育部馬術部として陸上部の中に含まれ誕生した。しかし、練習は今まで通り、各々野砲連隊あるいは輜重連隊で行う事となった。(故鈴木勝総長談)
活躍された選手

創部時代のメンバー
● 歯学部 鈴木勝(故)、柿崎徳太郎、川崎、信太、山本
● 医学部 泉川正義、杉田、佐原義長
● 法学部 穴沢義雄、一戸、元島

特記事項 (1)3学部で馬術を志す学生が、一緒になって馬術部を創設したが、学業の時間の違い、練習場所の違いなどから、部として統一した活動は難しかった。(故鈴木勝総長談)
(2)京都若草大会(学生の部)/鈴木勝 3位。
部長・監督 不明
不明

  昭和元年〜昭和10年頃 活発な動きを始めた頃
部の状況 ○ この時代に入って、徐々に馬術部としての活動が、活発になってくる。特に昭和2年、陸上部より分離して独立をした事。また、我が国における学生馬術も、当時の陸軍の援助を受けて活発になって来た時代である。
● 昭和5年11月 関東学生馬術大会で高杉耕治が2位、医学部杉田が入賞。
● 昭和6年に全国学生馬術選手権で高杉耕治が5位入賞。
● 昭和10年7月には、全日本学生主催の東北大会で団体優勝。
活動が非常に活発になって来た。
※ 東京獣医高専(現農獣医学部の前身)では、昭和6年に馬術部を創部。昭和7年には、関東学生馬術争覇戦において(2部)優勝を果たしている。
活躍された選手 ※この時代に活躍した選手
【日本大学】
鈴木勝(故)、信太、山本、岡田、江上滋、九十九、高橋虎雄、清水威雄、土浦、高田、杉田、高杉耕治(故)、庄司、松本、近藤嘉司
【東京獣医高専】
創部時代からのメンバーと活躍した選手。
桑原志郁夫、小堀進(故)、内田直孝(故)、山内善郎、高橋孝一、小川、高坂
特記事項 高杉耕治の全日本学生選手権2位と東京獣医の関東争覇(2部)優勝。昭和10年、全日本学生主催東北乗馬大会団体優勝などの成績で代表される通り、我が馬術部も発展の一途を辿った時代であった。
※ 関東選手、高杉耕治、近藤嘉司、江上滋
部長・監督 【日本大学】
部長/加藤一雄(故)
監督/不明
【東京獣医高専】
部長/植村巻太郎(小谷一雄)
監督/内田直孝(故)

  昭和11年〜昭和20年頃 戦運の影響を受けた頃
部の状況 ○ 昭和13年に予科(現文理学部)に新しく馬術が正科となり、60頭入り厩舎と100m四方の馬場が出来たが、馬術部としてはこれを利用する事が出来ず、各々に各学部別で軍隊(輜重隊、士官学校、野砲隊)で練習を行った。
昭和15年頃より、戦運は徐々に厳しくなり選手達は非常に苦しい環境の中で、母校のために活躍したが、昭和17年以降は殆ど学徒動員などで、三崎町校舎に部屋があるだけといった状況になり、昭和19年、遂に部は休部となってしまった。
一方、東京獣医高専の方も、戦運の影響でやはり消滅状態となっていたが、休部するまでには至らなかった。
活躍された選手 【日本大学】
高杉耕治(故)、近藤嘉司、馬島秀麿(故)、津村昌幸、加藤金一郎、高島憲正、正木準一郎、小稗康次、大和武彦、笠井仁己、成田、田代公徳(故)、祖上、鈴木文弥、石井順造、石崎夏夫(故)、中根英治郎(故)、白井達、牛尾勉久
【東京獣医高専】
庄内貞夫、臼井弥三郎、阪田晋二郎、大木正巳、原田嘉久、入来重弥、伊村幸一、奈良崎利孝、東野利忠(故)、山田好(故)、成田忠俊、坂田倉蔵、花形利次
特記事項 ※ 関東選手、大和武彦、田代公徳(故)、石井順造
部長・監督 【日本大学】(昭和15年まで)
加藤一雄(故)
監督/不明
【東京獣医高専】
部長/桑原志都夫
監督は各代の主将が兼務




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